スズムシ


子どもの頃に部屋で寝そべってドラえもんを読んでいると、その日のスネ夫のび太ジャイアンしずちゃんを家に招いて、高級車や海外旅行や芸能人との交流を見せびらかすいつもの面持ちでスズムシを自慢していた。のび太は家に帰るとスズムシが欲しいとドラえもんに泣きつき、ドラえもんはスズムシは出せないがゴキブリをスズムシみたいに鳴かせるひみつ道具ならあると言ってポケットから取り出し、のび太ドラえもんは意気揚々と捕まえてきたたくさんのゴキブリを庭に解き放つ。息子のためにデパートでスズムシを買ってきたスネ夫の父親も含めて登場人物の言動が何ひとつ理解できずにとてもこわかった。腕をまっすぐに伸ばして床を蹴り上げなければまだ天井に手が届かなかった頃の記憶。

後藤明生からの教訓

先日、文学フリマ35に後藤明生の講演CDを買いに行くため出掛けました。人混みはとても苦手なので出来れば行きたくないのですが、僕、後藤明生の声を聞いてみたかったので。前日、後藤明生の語りを聴きながら寝落ちする日々を想像するくらいには楽しみにしていました。

当日後藤明生のブースの前に立ち、いざ購入しようとCDを手に取ったあとブースに置かれていた本棚を一瞥し、500円で売られていた『小説—いかに読み、いかに書くか』と題された本をパラパラめくってみると、どこを開いても自分がかつて考えたこと、これから考えるべきであろうことが書かれていて、気付いたらCDと一緒に購入していました。アミダクジ式に脱線してしまった僕は、家に帰るとCDそっちのけでこの本を読み始め、ページをめくりたいと思わせる関心が途切れることなく続き、翌日の仕事時間中に軽くサボって公園に立ち寄り、読み終えてしまいました。いまから、この本から私がごく個人的に得た実践的な教訓を幾つか書いてみます。感想や魅力や意義について語ることにはあまり興味が湧かないのでその辺は他のブログや読書メーターをあたってくれると助かります。

 

後藤明生から学んだ個人的な教訓について

 

 1.芸術にふれるときはどのようにすればその作品を模倣できるか考えること

要するに「天才」ドストエフスキーも、「読む」ことから出発した(!)ということである。

しかも、青年時代、修業時代において、西欧先進国の文学に読みふけった彼(=ドストエフスキー)が、いざ自分で小説を書こうとしたときには、やはり「ロシア」のゴーゴリから、出発せざるを得なかったということなのである。(p.13)

 

 2.作品を神話化するのではなく、その方法を分析しようと試みること

実際ゴーゴリの喜劇は、魔術か錬金術のように見える。しかしそれを、彼の「天才」だといってしまえばそれまでだろう。「神話」化してしまえば、分析することも一般化することも普遍化することも、タブーとなる。なるほどゴーゴリの小説は、魔術的であり、錬金術的である。しかしその魔術、錬金術には「方法」があった。そしてドストエフスキーは、その喜劇化の「方法」を読み取ったのである。(p.14)

 

 3.作者が先行世代に学んだ変形・発展のさせ方をさらに後の世代のわたしたちが学ぶこと

この種の類似は、まだ他にいくつでも見つけることができる。そしてそれは、言うまでもなく、けっして偶然の類似ではない。あくまで宇野が、ゴーゴリから意識して取り入れた方法なのである。(p.115)

 

 4.他者がいるということは自分とは異なる目を持つ人がいるということ、自分が見られる可能性にさらされていること、自分の見た風景が相対化されうること

そして私のいう「複眼」は、おそろしいかおそろしくないかは別として、「他人」にも目はある、という簡単な事実である。(略)

要するに「複眼」とは、相対化する目である。(p.89)

 

 5.”そして”、”とつぜん”といった形容詞を書くことで文章の運動を立ち上げること

実際、接続詞とは、読んで字の如く、何ものかと何ものかを結びつける「媒介」である。それ自体の意味が、まったくないというわけではないが、何ものかと何ものかとを結びつけることによって、文章全体に不思議な変化をもたらす役割の方が、より大きい。(p.111)

 

 6.日常そのものが異様なる世界であること、ときに文学がそれを隠蔽すること

「日常」とは別のどこかに、「異様」な世界があるのではない。日常そのものが、異様なる世界なのである。(p.212)

後藤:要するに小説というものは、特に散文の言文一致小説というものは、美文的であってはいけないというひとつの美学、いわば反美学的美学があるわけですね。

(略)

蓮實:つまり、リアリズムがグロテスクになっちゃう。

後藤:そうなんです。ですから、即物的に書こうとすることが、グロテスクみたいになってくるということでしょうね。

(『魂の唯物論的な擁護のために』所収の蓮實重彦との対談「小説のディスクール」より)

 

『小説—いかに読み、いかに書くか』のエピローグで後藤明生は次のように語ります。

この本はプロローグに書いた通り、読者それぞれが自分の『外套』を発見するための、サムシングである。その「サムシング」をどう読み取るか、それは読者の自由に属する。そして、そうやって読み取った「方法」が、すなわち書く「方法」ということになるのだと思う。

僕はこんな感じで読み取ったのですが、いかがでしょうか後藤さん。

 

2⇄3、あるいは小説の描写について

 解説でも選評でも書評でも小説の二次的な言説を読むと、描写がリアルとか描写が真に迫っているとかそういう表現を目にすると思います。
 僕はいま、小説のリアルな描写とは何か?そもそもそれは目指すべきものなのかということについて少し考えてみたいと思います。
 小説のリアルな描写については幾つかの領域があります。つまり、心理的な描写なのか、風景描写なのかなどといった領域です。小説を評する際によく見かけるのが、—何故か芥川賞の選評で見かけることが多い気がするのですが、“人間がよく描けている/いない”という言葉です。僕が疑問に思うのは、人間が描けているというとき、その人間とは誰のことなのか?高床式倉庫で暮らしていた人、いま地球の裏側で暮らしている人、未来のもう地球を捨てて火星に移住してしまった人類なども含むのかということです。そして、僕は日本の近代文学谷崎潤一郎以外差別主義者だと語る中上健次も自分の関心に引き付けて文学における人間中心主義に「?」を突きつけた存在だと捉えてしまっています。人間とは〇〇だ、と語ったときのそのスポットライトは全ての人間に当たっているのか?人間に含まれない人間が、不可視化された人間が、切り捨てられたマイノリティがいるのではないか?最近読んだ本からひとつ引用をしてみます。

岡崎: しばしばいわれるように、対象の迫真的な表現というものがレアルかというとそうではなくて、迫真的に表現すればするほど、偽物か本物かを問われることもなく流通している通俗的な表象に還元されてしまう 『絵画の準備を!』

 人間が描けているというときに人間の通俗的表象、例えば、苦悩、孤独、悪、性なんでもよいのですがそれを迫真的に描くことによるキャッチボールが行われ、作者と読者が“リアルな人間”像を共有して満足してしまうという事態が起こりえます。迫真さとリアリティは作者と読者の差別的共犯によって産まれるといってもいいのかもしれません。だから、仕上げにミートドリアにイタリアンパセリを振りかけるように、その迫真さを指して“人間が描けている”と言えば文学が出来上がります。そいつに舌鼓を打てば立派な文学愛好家です。
 さて、これは話の脱線です。僕が今回考えたいことはそういうことではないからです。ですが、リアルとかそういう言葉が必ずしも目指すべきその先かという疑問を投げかける役割は果たしてくれたと思います。いま、考えたいのはもっと小説の基本的な描写についてです。目の前の風景を文章にする作業のような描写や小説の中で時間や空間を立ち上げる描写です。
 まず、最初に指摘しなくてはならないのは“小説のリアルな描写”と言われるとき、たいていは私たちが地に足をつけ空を仰ぎ見るところの世界=3次元を小説の文章=2次元に巧みに圧縮する技術のことを指すようだということです。つまり、3→2の技術のことです。もちろん、描写というのは基本的には3→2の同義語です。突き詰めていくと写生とは何か?見たままとは何か?介在せざるをえない私の認知についてどう処理するのか?などの疑問が浮かび上がるのですが、それは稿を改めることにして今回は触れません。さらに今から書こうとしていたことは描写の産出論と再現論というテーマとかなり関心が重なっているように思えるのですが、それもスルーします。何故かといえば小説における描写とは何かと広げた大風呂敷がこの文章を書いているもうどうでもよくなってしまったからです。ハナから僕はカフカの話をしたかっただけなので、テキトーにカフカについて書いて終わります。
 以前に保坂和志が小説的思考塾でカフカの『審判』の次の部分を引用していました。

おぼつかない様子でKはあたりを見回した。小さなろうそくの光は、向こう側の壁まで届いていなかった。ところがその片隅に、ほんとうに何かが動きはじめたのだ。叔父がろうそくを高く掲げてみると、その光を受けて、小さな机のそばに中年の男がすわっているのが見えた。

 1年以上前のことなので、保坂和志がこの文章を受けてどのように何を言ったのかは全く覚えていないのですが、自分のメモから再現すると、この文章は「そんなこと言ったってだいたいあなたズボンはいてないじゃないか」と同じ構造のカフカ特有の後出し的な記述だ、というようなことを言ったはずです。
 この小説的思考塾のエピソードはついさっき部屋の片付けをしているときにメモを見つけたもので、今から自分が書こうとしていたこととほとんど同じような関心だったので、挿入しときました。
 ひと月ほど前に僕はカフカの『失踪者』を読んでいて、小説の世界が開ける瞬間を目にした気がしました。いまから引用するのは、主人公のカールという気弱な青年が、ドラマルシュとロビンソンという彼と旅を共にしてきた二人組に夜中の野原で詰められる緊迫のシーンです。

「自分が正しいと言い張るなら、そうするがいい。そんなにまっ正直なおかたなら、どうしてホテルへ行きたいのか、その理由もちゃんとうかがおう」
ドラマルシュが詰め寄ってきたので、カールはやむなくトランクをまたいで後退した。ドラマルシュはトランクを押しのけ、さらに一歩すすんだ。その際、草むらに落としたままの白いシャツを踏みつけて、同じ問いを繰り返した。
それに答えるように、通りから強い光の懐中電灯をもった男が現れた。ホテルの給仕だった。カールを見るなり、声をかけてきた。

読んでもらえれば分かる通り、ドラマルシュ&ロビンソンvsカールという構図の緊張感の持続のなか、いきなり、強い光の懐中電灯が現れ、状況が一変します。確かにこれは後出し的記述です。ですが、ついさっきまで後出し的記述という形容が頭になかった私はここを読んで、カフカの空間描写は2→3の運動が生じている、小説の文章=2次元的な言葉の連なりから、間違いなく3次元的な空間が姿を現していると考えました。人間同士の二者間関係に終始するのではなく、空間的奥行があることで、抑圧された世界がとつぜん姿を現すという言い回しで説明すると想起されるのはフローベールなのですが、本棚が散らかっているせいでいまは引用できません。代わりに最近読んだ後藤明生に登場してもらいます。

実際、接続詞とは、読んで字の如く、何ものかと何ものかを結びつける「媒介」である。それ自体の意味が、まったくないというわけではないが、何ものかと何ものかとを結びつけることによって、文章全体に不思議な変化をもたらす役割の方が、より大きい。(『小説—いかに読み、いかに書くか』  p.111)

 この前後で後藤明生は、宇野浩二の小説は“そして”という書きつけられた接続詞に引っ張られるようにして文章が進んでいくという指摘をしています。言葉が言葉を呼び、その言葉が風景を呼び、風景がまた別の風景や言葉を呼ぶという運動こそが小説であり、退屈なものもあれば面白いものもあります。誤解しないで欲しいのですが、僕は3→2を低きに置き、2→3を持ちあげたいわけではありません。そうではなく、2⇄3を往還しながらそのフォルムでしか思考しえないわたしたちの生を思考する形式こそが小説であると考えています。小説に込められた生について考えるなら、小説のフォルムについて考えなくてはならないはずです。

どうでも良いことだが、ちょうどこの時期から私はコンタクトレンズを嵌めるようになった、それまでは普段は裸眼で、授業や映画を観るときにだけ眼鏡をかけていたのだが、大学生協コンタクトレンズを作ることにした、すると緑から目付きが変わったといわれたのだ。「目付きというか、目の形そのものが変わったよ、縦長の丸の、可愛らしい目に変わった」三十年以上経った今でも、私はコンタクトレンズを使っている、度数が変わったり、薄いタイプになったり、使い捨てタイプになったり、遠近両用型になったり、色々と変わりはしたが、最初にコンタクトレンズを嵌めたのは、緑から「会うのは止めよう」と言われた直後だった。(磯﨑憲一郎『鳥獣戯画』)

 「コンタクトレンズの説明がいつの間にか、恋人にかけられた言葉や失恋の予感、さらにはコンタクトレンズの種類が変わっていく三十年以上の時間を描いている。このように小説にしかできないやり方で、コンタクトレンズが一人の人間に訪れた記憶や言葉や歴史を覗かせる回路として姿を見せる」
 「」内の文章はかつて自分が書いたものなのですが、引用した磯﨑憲一郎の文章は小説という形式のなかに宿る生ということを考えるうえで、自分にとっては常に頭の片隅にあるようです。小説に象られた生について、小説の形式の無意識的な抑圧による不自由さについてもう少し向き合いたいと考える僕は、メインストリートではない道には自分の特別さが転がっていると信じたい時期の文学青年の面構えでパソコンを睨んでいます。最後にそんな僕の同士に違いない中山唯生くんに登場してもらって終わりにしたいと思います。

つまりこういうことだろう、そこには「現実の反映」ではない「反映の現実」があるのだと。それはまぎれもない虚構の真実なのだ。ああ!ついに私までもが、頭に血がのぼってしまった。「現実」の側に立つものが「虚構の真実」を見つめることで、その身のこなしを洗練させてゆくという、なんと感動的な過程。それはすこしも悲観すべきではない。むしろ奮起すべきことである。唯生は、「全ての感情」および闘いにおけるすべての「型」を、得ることはできるのだろうか、「自覚」は、はたして彼におとずれるのか。しかし彼はおもいもしなかったのだ、その公園には、鏡がないということを。しかしそれでも彼は立派に訓練をつづけた。 (阿部和重アメリカの夜』)

 小説を単に「現実の反映」として見るのではなく「反映の現実」を見つめようとすること、それによって身のこなしを洗練させること=自分の書きつける次の一行をより自由にすることをとりあえずの目標にすればよいでしょうか。それには「型」について思考することに奮起するほかないようです。あるかないかも分からぬ鏡とともに。

激レア

先日、カフェのオープンテラスで暢気に本を読んでいると視線の斜め先の円テーブルに男性と女性と男の子の3人組がやってきた。男性は白人系の外国人の見た目をしていて、女性とは恋人関係らしく、また女性はおそらく男の子の母親で男性と男の子には血縁関係はなさそうだった。テーブルに寄るなり、男の子は椅子に座り、母親に向かって「さっきの、さっきの!」と何かをせがんだ。女性が何かのカードパックをかばんから取り出して少年に手渡すタイミングで、男性も席に着いた。女性は荷物をテーブルの上にいくと、注文なのかトイレなのか席を立った。男の子は周りを気にすることなくカードパックを開封し始めて、2枚目のカードを見るなり「激レアじゃない?激レアだ!激レアじゃん」とさけんだ。横にいた外国人男性が、「What is “激レア”?」と訊ねると、少年は男性だけでなく世界に誇るように激レアカードを掲げ、緑さすオープンテラスの中でカードに施された特殊加工の銀色が眩いほどの輝きを放っていた。

村上春樹と翻訳

読むものといえば翻訳・村上春樹と銘打たれたものばかり、という時期があった。カーヴァーもフィッツジェラルドもチャンドラーもグレイス・ペイリーサリンジャーカーソン・マッカラーズもそうやって手にとってひとつひとつ自分の読書の世界を広げていく喜びはあの頃より薄れてきてしまったけれど、あの頃学んだ手の伸ばし方でいまも本に手を伸ばす日々を送っていると思う。あるとき、村上文学の愛好者を称する大学生の村上春樹の翻訳した作品を紹介するブログを見つけて覗いてみたことがある。そのブログの執筆者はあとがきで村上の書いた“この作品を訳すのは骨の折れる作業でした”みたいな言葉を引用して、“すごいですね、村上さんは骨折しながら翻訳をやり遂げたそうです”と書いていて、僕はそれをよんですごいと思って、ブックマーク登録して、折に触れて読み返していた。なんだか嘲っているように見えるかもしれないけれども、比喩が比喩を超えて現実の挿話に置き換わる翻訳術に鮮やかな跳躍を見た晴れやかさを感じたし、何よりギブスをはめながらゲラを見返す村上春樹の姿をこっそりイメージして楽しんでいたのだ。もし村上春樹が“翻訳作業に精を出しました”と記せば、やっぱり彼はオナニーする村上春樹の姿を想像するのだろうか。

読書メモ:『絵画の準備を!』①

以下は『絵画の準備を!』の第一章、第二章のメモ。


『絵画の準備を!』メモ


1 純粋視覚の不可能性

p.12 「先行する理念への疑惑」というテーマが浮かび上がり、そこでは«経験的な持続の相において、この先行性が凌駕されるという»実例として制作の中で予定とは全く異なるものを書いたマティスについて語られる。ここはときに自分の芸術観にマティスを引き合いに出すこともある磯崎憲一郎が想起される。(作者の意図などを超えて小説が書かせたのだ!)

これを単純に礼賛するのにも留保が必要となる。

(«松浦:場合によっては、あらかじめ経験の相における予測不可能な跳躍を目的論的に方向づけることになりかねない»)

p.14 松浦:デュシャンの目指すのは純然たる像の創設であり、物体を像それ自体へと変容させること。

p.18 見えるものをそのまま描ける人などいない。小さな記憶を描いている。にもかかわらず、見ると描くが同時性の地平に置かれがち。

p.22 «岡崎: しばしばいわれるように、対象の迫真的な表現というものがレアルかというとそうではなくて、迫真的に表現すればするほど、偽物か本物かを問われることもなく流通している通俗的な表象に還元されてしまう»

ここは凄い大事なことだ。小説でも人間が描けているとか描写がリアルだとか言われるけれども、それは所詮“人間”や“リアル”とされるものをなぞっているにすぎないのでは?

p.28-p.30 マネの絵の話

●マネのモチベーションや欲望が宙吊りにされている
●社会化されてない偶然的な視線、どこにも属さないつかのまの視線
●絵の光景が帰属する統御する主体が外されている
●主題や中心をいかに解体するか
●当時は観客が見たいと欲望するものは社会的に規定された、レディメイドのもの←それの解体

p.34 恋愛とは対象との関係が無関係、不確定であり、その宙吊り状態、それが19世紀の面白さ

p.38 私の視覚と他者の視覚は共有できるか?視覚の共有不可能性
視覚というものが共有されていることを前提にしていた。その前提が崩される、という不安。
←はじてから他者の視覚を自明として絵を描くということが面白くない。

p.42 «自己を形成するには必然的に切断が介入せざるをえない»ここはピンと来ていない。

p.43 «岡崎: 受動性というのは自分の嫌なものでも受け入れなければならないということなんだな。ときにはむしろ自分が不自然だと思うことを強制されて……しかし、これを積極的に超克してしまうのが受動性だったりする»←サド

p.68 クレーは自分のなかから無数の他者としての生産主体を創出しようとする。たとえばあえて、システムの奴隷=他者になりきり、そこから自発的に生じてくるさまざまなずれ、歪みを多様なる生産のきっかけにする…

←小説でもたとえば労働の管理下に身体、感情、思考が治められるさまを生産のきっかけにするカフカ

p.74 軽いケージ批判、偶然による組み換えを行っても観客を宙吊りにしなくては予定調和的。

2.代行性の零度

この章は知識がほとんどない建築への言及が多かったこともあり、あまり理解していない、パラパラと眺めながら読み進めた。

p.99 平面という俎上に載せられた複数の次元。
«松浦: ベンヤミン的な比喩を使えば、それは星座なんですよ。ここから見ているとあらゆる星が同じ距離の一枚の平面にのっているように見えるけれども、ひとつの星とそのとなりに来る星とのあいだには何万光年という差が距離的にはあったりするわけです。»
«岡崎: 主体は空虚な座として要請されているだけで、実際には種々さまざまな相互に矛盾する異なる位相に位置づけられる点の集合である。(略)そう振る舞っているだけで、現実的にはあいかわらず多数の矛盾する主体が複数の位相として活動している。»

p.107 «だから「いない、いない、ばあ」と同じで、アヒルを見る自分とウサギを見る自分、さらにそれを統合するものとしてアヒル・ウサギを見る自分、その三つは永遠に一致しない、一致しないがゆえにそれらの間を駆け抜けていこう、と。実際ラカン風にいえば、主体というのはその走り抜けるあいだにしかないわけです»

p.108 手の届かない現在性について

«岡崎: 現在性というのは、つねに過去に、送り込まれているというより、過去の中にしか確認できないというほうが正しい。

松浦: ちょうど老年の中にしか幼年時代がないように»

フロイトはショックについて、ショックを受けている最中はなにも感じない、痕跡として語られるときにショックがあったことが事後的に経験される、という。遡行的なもの、痕跡がとどめられるにすぎない。ベンヤミンもしかり。ボードレール、誰も現在を知覚できない。