読書メモ:『絵画の準備を!』①

以下は『絵画の準備を!』の第一章、第二章のメモ。


『絵画の準備を!』メモ


1 純粋視覚の不可能性

p.12 「先行する理念への疑惑」というテーマが浮かび上がり、そこでは«経験的な持続の相において、この先行性が凌駕されるという»実例として制作の中で予定とは全く異なるものを書いたマティスについて語られる。ここはときに自分の芸術観にマティスを引き合いに出すこともある磯崎憲一郎が想起される。(作者の意図などを超えて小説が書かせたのだ!)

これを単純に礼賛するのにも留保が必要となる。

(«松浦:場合によっては、あらかじめ経験の相における予測不可能な跳躍を目的論的に方向づけることになりかねない»)

p.14 松浦:デュシャンの目指すのは純然たる像の創設であり、物体を像それ自体へと変容させること。

p.18 見えるものをそのまま描ける人などいない。小さな記憶を描いている。にもかかわらず、見ると描くが同時性の地平に置かれがち。

p.22 «岡崎: しばしばいわれるように、対象の迫真的な表現というものがレアルかというとそうではなくて、迫真的に表現すればするほど、偽物か本物かを問われることもなく流通している通俗的な表象に還元されてしまう»

ここは凄い大事なことだ。小説でも人間が描けているとか描写がリアルだとか言われるけれども、それは所詮“人間”や“リアル”とされるものをなぞっているにすぎないのでは?

p.28-p.30 マネの絵の話

●マネのモチベーションや欲望が宙吊りにされている
●社会化されてない偶然的な視線、どこにも属さないつかのまの視線
●絵の光景が帰属する統御する主体が外されている
●主題や中心をいかに解体するか
●当時は観客が見たいと欲望するものは社会的に規定された、レディメイドのもの←それの解体

p.34 恋愛とは対象との関係が無関係、不確定であり、その宙吊り状態、それが19世紀の面白さ

p.38 私の視覚と他者の視覚は共有できるか?視覚の共有不可能性
視覚というものが共有されていることを前提にしていた。その前提が崩される、という不安。
←はじてから他者の視覚を自明として絵を描くということが面白くない。

p.42 «自己を形成するには必然的に切断が介入せざるをえない»ここはピンと来ていない。

p.43 «岡崎: 受動性というのは自分の嫌なものでも受け入れなければならないということなんだな。ときにはむしろ自分が不自然だと思うことを強制されて……しかし、これを積極的に超克してしまうのが受動性だったりする»←サド

p.68 クレーは自分のなかから無数の他者としての生産主体を創出しようとする。たとえばあえて、システムの奴隷=他者になりきり、そこから自発的に生じてくるさまざまなずれ、歪みを多様なる生産のきっかけにする…

←小説でもたとえば労働の管理下に身体、感情、思考が治められるさまを生産のきっかけにするカフカ

p.74 軽いケージ批判、偶然による組み換えを行っても観客を宙吊りにしなくては予定調和的。

2.代行性の零度

この章は知識がほとんどない建築への言及が多かったこともあり、あまり理解していない、パラパラと眺めながら読み進めた。

p.99 平面という俎上に載せられた複数の次元。
«松浦: ベンヤミン的な比喩を使えば、それは星座なんですよ。ここから見ているとあらゆる星が同じ距離の一枚の平面にのっているように見えるけれども、ひとつの星とそのとなりに来る星とのあいだには何万光年という差が距離的にはあったりするわけです。»
«岡崎: 主体は空虚な座として要請されているだけで、実際には種々さまざまな相互に矛盾する異なる位相に位置づけられる点の集合である。(略)そう振る舞っているだけで、現実的にはあいかわらず多数の矛盾する主体が複数の位相として活動している。»

p.107 «だから「いない、いない、ばあ」と同じで、アヒルを見る自分とウサギを見る自分、さらにそれを統合するものとしてアヒル・ウサギを見る自分、その三つは永遠に一致しない、一致しないがゆえにそれらの間を駆け抜けていこう、と。実際ラカン風にいえば、主体というのはその走り抜けるあいだにしかないわけです»

p.108 手の届かない現在性について

«岡崎: 現在性というのは、つねに過去に、送り込まれているというより、過去の中にしか確認できないというほうが正しい。

松浦: ちょうど老年の中にしか幼年時代がないように»

フロイトはショックについて、ショックを受けている最中はなにも感じない、痕跡として語られるときにショックがあったことが事後的に経験される、という。遡行的なもの、痕跡がとどめられるにすぎない。ベンヤミンもしかり。ボードレール、誰も現在を知覚できない。