2⇄3、あるいは小説の描写について
解説でも選評でも書評でも小説の二次的な言説を読むと、描写がリアルとか描写が真に迫っているとかそういう表現を目にすると思います。
僕はいま、小説のリアルな描写とは何か?そもそもそれは目指すべきものなのかということについて少し考えてみたいと思います。
小説のリアルな描写については幾つかの領域があります。つまり、心理的な描写なのか、風景描写なのかなどといった領域です。小説を評する際によく見かけるのが、—何故か芥川賞の選評で見かけることが多い気がするのですが、“人間がよく描けている/いない”という言葉です。僕が疑問に思うのは、人間が描けているというとき、その人間とは誰のことなのか?高床式倉庫で暮らしていた人、いま地球の裏側で暮らしている人、未来のもう地球を捨てて火星に移住してしまった人類なども含むのかということです。そして、僕は日本の近代文学は谷崎潤一郎以外差別主義者だと語る中上健次も自分の関心に引き付けて文学における人間中心主義に「?」を突きつけた存在だと捉えてしまっています。人間とは〇〇だ、と語ったときのそのスポットライトは全ての人間に当たっているのか?人間に含まれない人間が、不可視化された人間が、切り捨てられたマイノリティがいるのではないか?最近読んだ本からひとつ引用をしてみます。
岡崎: しばしばいわれるように、対象の迫真的な表現というものがレアルかというとそうではなくて、迫真的に表現すればするほど、偽物か本物かを問われることもなく流通している通俗的な表象に還元されてしまう 『絵画の準備を!』
人間が描けているというときに人間の通俗的表象、例えば、苦悩、孤独、悪、性なんでもよいのですがそれを迫真的に描くことによるキャッチボールが行われ、作者と読者が“リアルな人間”像を共有して満足してしまうという事態が起こりえます。迫真さとリアリティは作者と読者の差別的共犯によって産まれるといってもいいのかもしれません。だから、仕上げにミートドリアにイタリアンパセリを振りかけるように、その迫真さを指して“人間が描けている”と言えば文学が出来上がります。そいつに舌鼓を打てば立派な文学愛好家です。
さて、これは話の脱線です。僕が今回考えたいことはそういうことではないからです。ですが、リアルとかそういう言葉が必ずしも目指すべきその先かという疑問を投げかける役割は果たしてくれたと思います。いま、考えたいのはもっと小説の基本的な描写についてです。目の前の風景を文章にする作業のような描写や小説の中で時間や空間を立ち上げる描写です。
まず、最初に指摘しなくてはならないのは“小説のリアルな描写”と言われるとき、たいていは私たちが地に足をつけ空を仰ぎ見るところの世界=3次元を小説の文章=2次元に巧みに圧縮する技術のことを指すようだということです。つまり、3→2の技術のことです。もちろん、描写というのは基本的には3→2の同義語です。突き詰めていくと写生とは何か?見たままとは何か?介在せざるをえない私の認知についてどう処理するのか?などの疑問が浮かび上がるのですが、それは稿を改めることにして今回は触れません。さらに今から書こうとしていたことは描写の産出論と再現論というテーマとかなり関心が重なっているように思えるのですが、それもスルーします。何故かといえば小説における描写とは何かと広げた大風呂敷がこの文章を書いているもうどうでもよくなってしまったからです。ハナから僕はカフカの話をしたかっただけなので、テキトーにカフカについて書いて終わります。
以前に保坂和志が小説的思考塾でカフカの『審判』の次の部分を引用していました。
おぼつかない様子でKはあたりを見回した。小さなろうそくの光は、向こう側の壁まで届いていなかった。ところがその片隅に、ほんとうに何かが動きはじめたのだ。叔父がろうそくを高く掲げてみると、その光を受けて、小さな机のそばに中年の男がすわっているのが見えた。
1年以上前のことなので、保坂和志がこの文章を受けてどのように何を言ったのかは全く覚えていないのですが、自分のメモから再現すると、この文章は「そんなこと言ったってだいたいあなたズボンはいてないじゃないか」と同じ構造のカフカ特有の後出し的な記述だ、というようなことを言ったはずです。
この小説的思考塾のエピソードはついさっき部屋の片付けをしているときにメモを見つけたもので、今から自分が書こうとしていたこととほとんど同じような関心だったので、挿入しときました。
ひと月ほど前に僕はカフカの『失踪者』を読んでいて、小説の世界が開ける瞬間を目にした気がしました。いまから引用するのは、主人公のカールという気弱な青年が、ドラマルシュとロビンソンという彼と旅を共にしてきた二人組に夜中の野原で詰められる緊迫のシーンです。
「自分が正しいと言い張るなら、そうするがいい。そんなにまっ正直なおかたなら、どうしてホテルへ行きたいのか、その理由もちゃんとうかがおう」
ドラマルシュが詰め寄ってきたので、カールはやむなくトランクをまたいで後退した。ドラマルシュはトランクを押しのけ、さらに一歩すすんだ。その際、草むらに落としたままの白いシャツを踏みつけて、同じ問いを繰り返した。
それに答えるように、通りから強い光の懐中電灯をもった男が現れた。ホテルの給仕だった。カールを見るなり、声をかけてきた。
読んでもらえれば分かる通り、ドラマルシュ&ロビンソンvsカールという構図の緊張感の持続のなか、いきなり、強い光の懐中電灯が現れ、状況が一変します。確かにこれは後出し的記述です。ですが、ついさっきまで後出し的記述という形容が頭になかった私はここを読んで、カフカの空間描写は2→3の運動が生じている、小説の文章=2次元的な言葉の連なりから、間違いなく3次元的な空間が姿を現していると考えました。人間同士の二者間関係に終始するのではなく、空間的奥行があることで、抑圧された世界がとつぜん姿を現すという言い回しで説明すると想起されるのはフローベールなのですが、本棚が散らかっているせいでいまは引用できません。代わりに最近読んだ後藤明生に登場してもらいます。
実際、接続詞とは、読んで字の如く、何ものかと何ものかを結びつける「媒介」である。それ自体の意味が、まったくないというわけではないが、何ものかと何ものかとを結びつけることによって、文章全体に不思議な変化をもたらす役割の方が、より大きい。(『小説—いかに読み、いかに書くか』 p.111)
この前後で後藤明生は、宇野浩二の小説は“そして”という書きつけられた接続詞に引っ張られるようにして文章が進んでいくという指摘をしています。言葉が言葉を呼び、その言葉が風景を呼び、風景がまた別の風景や言葉を呼ぶという運動こそが小説であり、退屈なものもあれば面白いものもあります。誤解しないで欲しいのですが、僕は3→2を低きに置き、2→3を持ちあげたいわけではありません。そうではなく、2⇄3を往還しながらそのフォルムでしか思考しえないわたしたちの生を思考する形式こそが小説であると考えています。小説に込められた生について考えるなら、小説のフォルムについて考えなくてはならないはずです。
どうでも良いことだが、ちょうどこの時期から私はコンタクトレンズを嵌めるようになった、それまでは普段は裸眼で、授業や映画を観るときにだけ眼鏡をかけていたのだが、大学生協でコンタクトレンズを作ることにした、すると緑から目付きが変わったといわれたのだ。「目付きというか、目の形そのものが変わったよ、縦長の丸の、可愛らしい目に変わった」三十年以上経った今でも、私はコンタクトレンズを使っている、度数が変わったり、薄いタイプになったり、使い捨てタイプになったり、遠近両用型になったり、色々と変わりはしたが、最初にコンタクトレンズを嵌めたのは、緑から「会うのは止めよう」と言われた直後だった。(磯﨑憲一郎『鳥獣戯画』)
「コンタクトレンズの説明がいつの間にか、恋人にかけられた言葉や失恋の予感、さらにはコンタクトレンズの種類が変わっていく三十年以上の時間を描いている。このように小説にしかできないやり方で、コンタクトレンズが一人の人間に訪れた記憶や言葉や歴史を覗かせる回路として姿を見せる」
「」内の文章はかつて自分が書いたものなのですが、引用した磯﨑憲一郎の文章は小説という形式のなかに宿る生ということを考えるうえで、自分にとっては常に頭の片隅にあるようです。小説に象られた生について、小説の形式の無意識的な抑圧による不自由さについてもう少し向き合いたいと考える僕は、メインストリートではない道には自分の特別さが転がっていると信じたい時期の文学青年の面構えでパソコンを睨んでいます。最後にそんな僕の同士に違いない中山唯生くんに登場してもらって終わりにしたいと思います。
つまりこういうことだろう、そこには「現実の反映」ではない「反映の現実」があるのだと。それはまぎれもない虚構の真実なのだ。ああ!ついに私までもが、頭に血がのぼってしまった。「現実」の側に立つものが「虚構の真実」を見つめることで、その身のこなしを洗練させてゆくという、なんと感動的な過程。それはすこしも悲観すべきではない。むしろ奮起すべきことである。唯生は、「全ての感情」および闘いにおけるすべての「型」を、得ることはできるのだろうか、「自覚」は、はたして彼におとずれるのか。しかし彼はおもいもしなかったのだ、その公園には、鏡がないということを。しかしそれでも彼は立派に訓練をつづけた。 (阿部和重『アメリカの夜』)
小説を単に「現実の反映」として見るのではなく「反映の現実」を見つめようとすること、それによって身のこなしを洗練させること=自分の書きつける次の一行をより自由にすることをとりあえずの目標にすればよいでしょうか。それには「型」について思考することに奮起するほかないようです。あるかないかも分からぬ鏡とともに。